開設と自己嫌悪

愚痴のためにブログを開設しました、鱒です。

正直馬鹿すぎるよなあって思いますね。

 

まずは愚痴の前にワンクッション挟みましょうか。

私、先日に北海道大学の工学部にお邪魔したんです。

理由はというと、なんか科学研だかなんだかのプログラムの一種でいろんな実験を体験できるようなのがありまして…

その会場が北大だったんですね。

そこでですね、やっぱり知らん人たちと色々実験をするわけですよ。

そんな中コミュ障気味な私が話せるわけないと思っていたら

気づけば同年代の方と一緒に帰るという奇跡が起こりまして…

実際その人と実験中に話したわけではなくて、プログラムのラスト30分くらいでほぼ初めて話したわけですよ。

色々話をして、一緒に帰ってるうちに気づいたんですよ。

その人と私はもう二度と会う事はないという可能性があることに。

それに気づいた時には少しだけ寂しくなったのですが、

その時二人で話したのは

「また会うか分かんねえしそん時には忘れてるかもしれないけどとりあえずまたねって言っておこう」

ってなりまして、

結局札幌駅にて「またな」と解散したんですね。

一期一会ってのはよく言ったもんだと初めて感じた体験でしたね…(帰る途中に歌声をすこし否定されて悔しかったのはまた別のお話)

 

                                       

 

さて、本題に入りましょう。

議題は「不幸」についてになります

正直僕主観のお話なのでちょっとおかしいところがあるかもしれませんがご了承ください。

現在2018年8月20日午前2時半ごろ

私は多分虚無の入り口を抜けるところにいます

そう感じる所以としては、先ほど辛くてどうしようもなくなって涙が止まらなくなりそうだったのです

こうなったときは大抵枕がビショビショになるくらい泣いてから就寝するパターンなのですが、今日は違いました

涙が止まったのです

私はこの時、涙が出ないことに恐怖を感じてしまい、さらに自分の悲しむことを考えてしまいました。

その後、流れた涙は1滴だけでした

多分涙が枯れたんでしょう 何故かそう思ったんですね

そう思い愚痴として洗い流そうとTwitterを開いた私が目にしたのは

毒親から逃げて暮らす悲しく辛そうな方の言葉だったんですよ

RTされてたんですね

このツイートを見たときに

「あ、対して辛い境遇じゃないじゃん俺。」と思って愚痴をするのをやめようとしたんですよ

そのことをツイートしたらまあ優しいことに愚痴ってええんやでと許しをもらったので愚痴ろうとしたのですよ

でも文字数が足りないなって思ってどうするか考えて今に至ります

今愚痴るための土台組んでるだけになってますがお気になさらず…(まだ組みます)

一旦わたくしの境遇を話しましょうか。

                                       

2001年7月12日、私は北海道の札幌市に産まれました

私は小さい頃から好奇心旺盛で、いろいろなことにチャレンジしたんですね。

その当時は水泳、器械体操、サッカーとかもやってましたね…

そのころに、私は自分の短所を一気に2つ作り上げます

私が通っていた保育園に、たいじゅうランキングなるものがありまして、

組ごとに組の部屋についてるんですよね(まあ学年で組分けされてるだけなので組というか学年ランキングなのですが)。

私、年長になったときに3位だったんですよ。なんでか。

幼い私はなんでか知らないんですけど「らんきんぐでいちばんになりたい!」

と思ったんですね。馬鹿かな?

そうですね。このころから私は1番が好きになりました。ナンバーワンが。

しかも最初に目指した一番が体重ということもあり、今では規格外の奴らがいなければ同い年には負け知らずになってしまいました。そう、体重が。

結局卒園したころにはたいじゅうランキングで2位になっていました

この経験のせいで私の歯車が狂い始めます

小学生になって、真っ先に私はデブというレッテルを貼られました。

いやこう考えると子供って残酷ですよね。見た目で判断しやがって…

まあその頃から私はストレスがどんどんかけられていきまして、幼い私にはそんなのに耐えれるわけもなく…色々な問題を起こすわけですね

暴言、暴力、脱走未遂…色々やってきたわけですが

そんな中私は最悪なものに触れてしまうわけですね。

そう、ゲームです。それもただのゲームではなくて、DSⅰっていうハードの。

もうわかるでしょ? うごくメモ帳ですよ。

小学生にネットを触れさせてしまうきっかけとなるゲームですね。

そして更に

私はパソコンの扱い方をこのころから知っていました。

ローマ字なんて大得意でした。

そこで目にしたのは…いや、耳にしたのは、まだ小学生の間には知れ渡ってない未知の存在であった、「東方プロジェクト」や「ボーカロイド」などの様々なもの。

一瞬で、僕はハマっていってしまい、気づけばそんな仲間を探していたんですね。

その時、私に救いの手が差し伸べられます。

兄の存在ですね。彼は私に今すぐ現実にその趣味を出すなと叱りました。

しかし…幼い私は言うことを聞かず、ついには同年代に徐々に理解者が現れてしまったのです。

この時私に付与されたのは、オタクというレッテルです。

そのころの私を見てきた皆さんならわかると思いますが、すでにこのころから私は短気という短所が付きまといます

そして、私は11才になり、一つ目の大事件を起こします

私は休み時間、口論になり、怒って相手を追っかけまわしたときに女子のジャンバーかなんかを踏みまして、持ち主に怒鳴られたんですね。それが引き金となりまして

私は学校から脱走して家に帰りました。

玄関で私は号泣しました。自分の犯した行動の愚かさに。

その後、私はA先生という先生に慰められながら、話を聞いてもらいながら生活していました。その先生と話しているのが好きでした。

しかし、その先生は私が5年生になって、別の学校へ転勤されました。

しかもそのころ、私はイジメのターゲットの1人となってまして

まあいろいろ利用されましたね…ゲームカセットは盗まれ、金も取られて(お金は帰ってきました。ゲームカセットはなんでか調査できないとかで学校が対応取りやめ)。

その頃から私は嫌われ、おかしいと言われ…ついにまた事件を起こしまして…

小6の時ですね、転校生の子が入ってきて2日目ですか。

その子にあれやこれやと僕の悪いうわさをクラスのいじめっ子が言いまして…

「お前、もう転校生に嫌われたぞ」と煽られたんですね

それはもうブチ切れました。そんでそいつに危害を加えようとしたら転校生に少し被害が行きまして、そしたらいじめっ子の一人が怒りまして…

その子に殴られて、なぜか僕いつも負けてたんですがその日はその子を地面にたたきつけて教室から出てったんですよ

はい、また脱走しました。今度は家と反対方向に。

午後3時くらいに学校に戻ったら母親が来てまして

先生と話してる横で泣いてたんですよね

私、結構なマザコンだったんですよ。もうこの日から母親に心配かけないように生きようと決めてしまいまして

自分の辛いことを外に出さないようにしたんですよ

そんな癖がついて進学した僕は中学一年生の夏、ある快挙を成し遂げました。

一学期中間テスト、数学ノー勉100点。

そらもう大喜び。しかしその時に勉強を家でしない習慣がついてしまいます

更に、その喜びを打ち砕く事がありました

母にテストを見せ、大喜びで100点取ったことを伝えたのです

母は「でも英語が67点だからねえ…」と言いました

私はこの時に確信しました。私は勉強していい成績をとっても誰にも褒められないと。

実際クラスでも、100点を取ったことにみんなが不満がってましたし、もうそう考えてしまうのは必然なんですよ…

その頃、私はクラスになじめなくなり、母が仕事でいないときに学校を休んだりしていました。その頃の唯一の楽しみがネットでした

小学校で出来た友人がネットをやっていたこともあり、色々なことに触れるきっかけも作ってくれました

その一つであった動画制作で事件は起こりました

ある朝、学校に登校した私は、こう呼ばれました

「よう!マスフリ!」

「は?」私は戸惑いました。なんでこいつがその名前を知っているのか。

その日、私は先生に呼び出しをされ、動画投稿をしていることを指摘されました。

問題となった動画で、私は体育大会でいつもからかってくる人間にブチ切れて蹴った話をしていたのですが、なぜかその様子を撮影し、投稿しているとまで話が広がっていたらしく…

私はネットをやめることを強要されました。

私の生活の支えであったネットをやめることを。

ストレスの行き場をなくした私はどうすることも出来ず、不登校気味になりそうでした。

しかし、母親に心配をかけてはいけないと思い登校を続けました(勝手に休んだ日もありましたが)。

母親のために頑張ろう、頑張って乗り越えようと思いました。

11月中旬、母は小脳が破裂し、帰らぬ人となりました。

私は13歳でした。

忌引の期間が終わり、登校したときにおちゃらけた屑に言われたのが

「何お前母ちゃん殺したのよ」

私の心にグサリと刺さりました。

このころから私は狂い始めました

しかし、その時に支えてくれたのは部活の仲間たちでした

その影響も有ると思います。私が合唱を続けているのも。

その時、私はある過ちを犯したんですね…

恋をしてしまったんです。部活の仲間である、想い人に。

私は想い人に好かれるため努力しました。

中3の頃に83キロだった体重を

告白前に70キロに落とした事もあります

しかし、中3の頃の告白は失敗に終わりました

想い人には既に付き合っていた人がいたんですね

しかし、その人は同性愛に目覚めたらしく

別れたそうです

そんな悲しみを乗り越えて高校生になりました

その前にSCに戻ってきましたね僕は

私は懲りずにもう一回告白したんですね

それも失敗。また既に付き合ってました

その男とは男の方が屑だったそうで自然消滅したそうです

ここまでちゃんと復縁をしていたのですが…私は彼女を突き放す発言をしてしまったんですね

4月ごろ、彼女に相談に乗ってもらった時

私は「誰も信じられないんだ、想い人のことも」と発言してしまって

三回目の告白の時に聞かされたのですが、彼女はこの発言にとても傷ついてしまったんですよね。そのときにようやく言われました

「貴方の気持ちにはお答えできません」と。

そこから二人だけでの会話は一切ないし、私は彼女を見かけるたび、避けるようになりました

「彼女は私を見たくないだろう」と思って…

                                       

これが私の境遇ですね

なんで私はここまでの仕打ちをうけなくてはならないんでしょう

しかも高校ではクラスの人間の大半が私を嫌っている状況

夏期講習のとき、女子の席に座ることになり座ったらその席の女子に泣かれました

なんででしょうか…私は確かに勉強や嫌なことを避けて生きていました

しかしここまでの仕打ちをなんで受けなくてはいけないんでしょうか

心の支えを見つけては奪われ、見つけては奪われ

なんでこんな重圧で体に異常をきたさねえんだよ俺は

異常が起きてしまえば楽なのになんなんだよ

 

 

 

 

 

 

こんな感じですかね、書けることは

もう時間がなくなっていました、もう朝の4時半です

私はこれから学校の用意をしなければいけません

時間割はありません

知ることもできません

クラスになじめてないから

聞く事さえも…